re:structure

-landscape photogallery- 日々の写真と言葉も。

産業社会学のこと。

こんにちは。re:structureです。

通信制の大学に在籍しているのですが、最近学習している産業社会学という科目で現実にも応用できそうな面白い記述があったので紹介します。

f:id:restructured:20190324140843j:image

ちなみに、産業社会学は分野的に社会学の一端に属するのですが、その課題は産業の社会的・人間的側面を明らかにしようすることであり、経済学と対象を共有しながらも、それとは違ったアプローチで研究を進めようとするのが特性だそうです。

テキストの中で、特に印象に残った箇所の要約はこんな感じです。

アメリカの社会学者のウィリアム・フート・ホワイトは、大規模な法人組織に属し、他人が選択した目標に向かって自分の才能を捧げる能力と意欲によって資格づけられる人たちを「オーガニゼーション・マン」と定義づけた。

・功利的組織のもとでは、労働者たちは企業目的を達成するための手段として扱われるため、人間的欲求は生産の場面では充足されなくなる。生産過程で失われたものを、彼らは消費生活で回復しようとする。労働は彼らにとって生活の興味の中心ではなくなり、彼らは余暇に人生の価値を見出そうとする。この「仕事離れ」を背景として、「陽気なロボット」が出現する。

・彼らは、生産過程での禁欲的態度と消費生活における享楽的態度の対象によって特徴付けられる。彼らが要求するのは、労働時間の短縮による余暇の拡大であり、余暇を楽しむために当てる賃金の引き上げである。

・経済成長が停滞し、生産性が伸び悩み、賃金が実質的に停滞してくると、労働の報酬を賃金だけに求める陽気なロボットは欲求不満に陥る。

→オーガニゼーション・マンから脱却して、個性の発揮に務めることが急務。

・少数者だけが高等教育を受けられる時代には、組織の有効性を確保するために、中央集権的方式が正当化されていたが、教育の一般的水準が高くなり、その格差が縮小すると、官僚制組織は陳腐なものになる。そして、教育を重視し、個性の発揮を奨励する組織は、自律的諸単位のゆるやかな連合を内容とする平坦な構造のものである。

・チャールズ・A・ライクは、意識を「意識I」「意識II」「意識III」の類型に分けた。

・「意識I」:アダムスミスに代表される古典的な経済学に基づくものであり、自己の利己心は中世的な制約から解放された。(=産業主義の発展に寄与)

・「意識II」:経済力が集中すると、政治力と手を握るようになる(=大企業国家)が、この巨大な権力による人間操縦に起因する虚偽意識。そこでは、人々は自己を見失って組織倫理の虜になってしまう。(=オーガニゼーション・マンの出現)

・「意識III」:組織の性格を変革して、大企業国家の権力装置を人間的制御のもとに置こうとするもの。組織からの逃避やそれへの無意味な抵抗を意味するものではなく、大衆の自覚的参加によって、新しい組織を誕生させることがねらい。組織が自己更新力を持つには、官僚制を脱皮して「ゆるやかな連合」として自らを実現しなければならない。そのためには、多様な個性を活用できる弾力性を持つ組織が要望されるが、組織をできるだけ小さな単位に分割して、これらの諸単位に自律性を保たせることによって、組織の中に自己更新力が芽生えてくる。

 偶然にも昨日残業学の記事を書きました。

restructure.hatenablog.com

残業を減らすことの意義は、ここでいうところの「陽気なロボット」に陥るのではなく、いかに人生を豊かにしていくかということにあると思います。最後に、それを指摘したテキストの箇所を引用します。 

レジャー産業という形態の商品化の波の中に、陽気なロボットは巻き込まれてしまう。そこでの画一化に甘んじていると、余暇活動は受動化し、人間的に不毛なものになってしまう。

余暇問題の本質である自由を実現するには、自発的な生活態度と高度な教養が必要である。労働での人間疎外の代償として余暇を楽しもうとする安易な態度では、この自由を受けとめることはできない。歯止めのない娯楽は人間性の堕落を導き、社会的責任への関心を弱める。阻害から脱出しようとして、感覚的享楽の奈落に陥るのは当を得たことではない。高度な仕事に従事している人ほど、余暇活動においても積極的であるように見える。労働と余暇は相互に関連しあっているのである。

産業化につれて生活水準は向上し、労働時間は短縮される。これによって、余暇社会の物質的条件は整備される。しかし、それだけでは余暇での自由を享受するに十分ではない。従来の束縛からの解放という消極的な自由だけでは、問題は解決しない。自由をわがものにするだけの主体的条件が熟してこなくてはならない。今日の我が国においては、余暇が足りないという声があると同時に、それを活用できないという悩みも出ている。余暇を活用するには、積極的な自由が必要である。自由の物質的基礎が築かれても、人間的成熟が伴わないと、「自由からの逃走」が避けられなくなる。主体的条件が未熟であると、自由はかえって重荷になり、それに耐えることが不可能になる。

(青沼吉松「産業社会学」p129=130)

 というわけで、今日はここまで。